ボッチポッチ。ステーション

天涯孤独、もうすぐ消えるちっぽけな人生を生きる女が思うこと。

その2 死ぬ理由と幼児期

日本は教育や教養がある人が多いけど、その一方で一般的な理想像に固執する傾向がある。韓国ほどひどくはないにしても、こうあるべきという固定観念に取り憑かれている人が驚くほど多い。それは、日本人に強迫観念として襲いかかって生きにくくする。その結果、自殺大国になってしまったんだと思う。


まあ日本人は特に切腹してきた歴史があって、潔く死ぬ、という責任の取り方を身近に時代劇などで見てきたから、自殺という安易な終わり方が脳裏に浮かびやすい環境にあるのかもしれない。


日本人が描く理想像がほぼ一つしか無いっていうのが問題なんだと思う。多様性こそが真実のあり方なのに、みんな本当は変人なのに普通を装って安心しちゃうでしょ。で、変人を見ると隠した自分の本性に気付くような気がしていじめたくなるの。見苦しいったらない。一つの人種しかいないからこうなるんだよね。こういうところは外国が羨ましくなる。


何を隠そう私は生まれてこの方変人として生きてきた超変人ではないけど、一目見て変わり者に見えたと思う。美術系の人間なので。そして変人が好き。小学校の頃からゲイっぽい男の子が好きだった。一人は本当にゲイだった。変人の自分が言うのもなんだけど、変人って安心するよね。ありのままの自分でいて良いんだって思わせてくれる。オネエ系が引っ張りだこなのって、見てると安心するからだと思うんだよね。こういう生き方もあって良いんだと教えてくれる。


あ、死のうと思った原因が見えてきた。


私は変人だと信じてた友達が普通に結婚していったのを見て失望したんだ。子供も生まれてママさんになったら、もう話も合わないしこのまま一人で生きてても何の意味も、存在価値もないなあと思ったんだよね。高校時代から仲良くしてる7人組なのに、5人ともママさんになっちゃうんだもの。結局みんな普通の道を歩むんだなあと思った。私は輪をかけて孤独になった。
それに加えて負け犬だとかいう知らない人たちの記事を見たりして、自分を傷つけた。あと、男に失望したのもある。そして他の人とは違って自分は自分を愛せないことに気付いた。



自分を愛せないことが不幸のはじまりだった。
そしてもう自分を愛してくれる人はいない。
だから死ぬしかないんだ。生きていても辛いだけだから。



幼児期を書こうと思ったけど、前置きが長過ぎてしまった。
続けていいものか…まあ誰が見る訳でもないんだけど。



美人な母親の元に生まれた似ても似つかない不細工な娘が私です。
不幸なことに母はブス専だったのです(T▽T)


母は私を生んだ当時19歳。3人兄弟の末っ子で兄と姉がいるA型。
父はたしか当時21歳で3人兄弟の長男。妹と弟がいるO型。
典型的な良相性カップルでした。



ありがちな出来ちゃった婚で、これが問題なんだけどどっちもヤンキーでした。父はヤンキーの親分だったらしい。そして母の兄が地元で有名なヤンキーで暴力団とも付き合いがあるみたいで、父とも仲が良かった。


そんなちょっと変わった両親だけど、人一倍優しい二人でした。それだけは間違いない。優しいの定義って広い気がするけど、人柄の良い二人なのは間違いなくて、どちらも交友関係が広くて友達がたくさんいた。まあヤンキー繋がりだけど。二人がケンカしたところは一度も見たことがない。


両親とも高校中退でたいしたところでは働けないから、母は私の祖父にあたる父親の事務所で働かせてもらっていた。事務所はマンションの3階の一角にあって、その事務所の隣の部屋を祖父の計らいで住めるようにしてもらって、母と父と赤ん坊の私とペットのシェットランドシープドッグで使っていた。


勤務場所と自宅が隣り合っているお陰で、赤ん坊の私はシェットランドシープドッグの姉と自宅に放ったらかしにされていたらしい。
もちろん鳴き声がしたら様子を見に行ける距離なんだけど(事務所の中に自宅に通じるドアがある)、私は犬の温もりの中で育ったようだ。
その頃まだ1歳(人間年齢で17歳)の私の姉シェットランドシープドッグは、きっと困惑したと思うんだ。うるさくて小こい赤ん坊を見るのは初めてだろうし。それでも吠えることなく面倒みてくれたらしい。狼は血縁関係にある家族の面倒をみるそうなので自然なことなのかもしれないけど、本当に賢くて優しくて美しい犬なんだ。


その時はまだ母も幸せだったのかも。
それから私が1歳か2歳になる頃、広い2階のアパートに引っ越した。そこは階段が急で、幼い私は何度も転んだことを覚えている。1度頭も打って何針か縫った傷がいまだにこめかみに残っている。
そしてバブルが崩壊したのかな?うろ覚えだけど、父は給料を入れてこなくなったらしい。


ある夜まだ暗い中、起きたら母も父も誰もいなくて、部屋中電気が付いてなくて怖くて、泣いても誰も答えてくれなくて犬の姉もいなくて寂しくて、持っていたぬいぐるみを全部自分の周りに置いて寝た記憶がある。誰もいない孤独な記憶、子供の頃何度も経験したけど、まるで自分の人生を暗示しているみたいだなって思う。


その後、父と母が台所のテーブルに座って私に聞いてきた。どっちについていきたい?って。二人とも穏やかだった。
私はなんて言ったか覚えてないけど、母に心は決まっていたのだけは覚えている。父も怒ったことなんて一度もなくて優しくて好きだったような気がする。本当はどっちも同じ位だった気がする。どっちか選ぶなんて考えたこともないもの。それでも母は私の姉の飼い主だったし、車で保育園に連れて行ってくれる人だった。
たまに2人乗り自転車に乗せてくれるのがすごく嬉しかった覚えがある。


それからすぐに母は自分の荷物を車に載せるだけ載せて、私と姉を乗せて夜道を走らせた。
知らないアパートに着いた。アパートの横が陸橋で、下にはいつも車が走っている賑やかな大通りになっていて、その道路を上から見下ろせる狭いアパートだった。そこが小学生まで住むことになるアパートだった。私は4歳か5歳だったと思う。


母は平日毎日車で保育園まで送ってくれた。母は車でいつもカセットテープを聞いていて、その頃に聞いていたのはテレサテンだったと思う。


私はすこぶる好奇心旺盛な子供で、道ばたの人誰にでも付いていくような慣れ慣れしさだったらしい。ある日、好奇心から保育園まで一人で歩いていこうとしたのか、迷子になったことがあった。あまり覚えていないけど、道ばたで出会ったおばあさん家に日が傾く頃までお邪魔してお世話になっていたようだ。母はその頃必死で探していたらしい。
私はまったく悪気がなくてけろっとして母の元に戻った。おばあさんが説明してくれて、こういうことはしたらいけないんだと学んだことを覚えている。


私は早熟な子で背が大きかった。年長の頃には保育園のかけっこでいつも一等賞をとっていた。けど、保育園でいちばん印象に残っているのは胸の大きな綺麗な保母さんにどうしようもなく甘えたい気持ちを抑えたこと。
きっとこの頃から母親の愛が足りてなかったのかもなあと今になって思う。


その3へつづく