ボッチポッチ。ステーション

天涯孤独、もうすぐ消えるちっぽけな人生を生きる女が思うこと。

その3 小学1年 特別な母親

その人の人間性は育った環境で決まるらしい。
幼少の頃に何を経験したかで、その後の人生が左右される。

多くの人が自分の人生をパッケージにして羅列できるようなアプリがあったら、人間行動科学とか心理学とかの役に立つのかもしれない。

ただし生きていく上で自分の個人情報を赤裸々に明かすのは難しい人も多いと思う。自分の胸の内にしまっておきたいことだって山ほどある人もいるかも。だからこそ、生前に自分の人生に起きたことを書いてしまっておけるアプリなんかがあったらいいかもしれない。

とはいえ私にとって過去に起きたことを書くことは、なかなか憂鬱で虚しい作業だ。それでも、母の為にも書き記しておきたい。本当は漫画にしたかったけど力不足みたいだから。



引っ越した狭いアパートは、玄関からキッチン、畳の部屋2つが奥に並んでいるシンプルな部屋で、狭いながらもそこでの暮らしは悪くはなかった。母は父と別居したけれど、私たち親子は少しも孤独ではなかった。


母には中学時代からの親友(仲良くなったのは子供が産まれてかららしい)Rがいた。Rは母と同い年で、母が私を産んだ時にはもう2歳になる女の子がいた。Rもやはりヤンキーだった。
母は気配り上手のお人好しで典型的なA型、Rは気が強くて話し上手な典型的なO型、相性は抜群で、仲良くなってからはいつも一緒にいるような大の仲良しだった。父や周りの男性陣はそんな二人をレズじゃないかと疑うほど。


母もRもお酒とタバコが好きで、私と2歳年上のRの子供Hちゃんと4人でいつも食事をしていた。毎日ではないにしても、暇があるときはだいたい一緒にご飯を食べたり出かけたりしていた。私も母もRとHちゃんと過ごす時間が大好きだった。


いつもは多くを語らない母だけど、Rと一緒にいる時は楽しそうに笑って饒舌になった。お酒が入るのもあるけれど、何があったのか逐一語り合って、慰め合って笑い合える二人の関係は、子供の私から見ても憧れだった。それはHちゃんも同じだったと思う。


Rは自分の子供のように私を扱ったし、母もHちゃんを自分の子供のように可愛がった。Rは気が強くて何でもズバズバ言いながらも、楽しい人柄でムードメーカーだった。私はRを父親兼母親のように思えて大好きだった。時には母と同じ位大切な人に思っていた。
私たち4人は家族のように強い絆で結ばれていた。


私が小学校に入学する頃、家のカギというものを貰った。それを首に掛けておいて学校から帰ってきたら家のカギを開けて入るものだった。私は小学一年生、晴れて鍵っ子になった。
母は仕事で夜6時くらいにならないと帰ってこない。


学校や学童から帰って家のカギをカギ穴に差し込むと犬の吠える声がした。ドアを開けると尻尾をふって大喜びしてくれるシェットランドシープドッグがいた。私はその子を連れて散歩に出かけるのが日課だった。


いつからか私は学童保育に通い、いつからか母は夜出掛けるようになった。Rと一緒に水商売で働くことになった。


夜6時に帰ってきて私とご飯を食べると、決まって母はいそいそと支度をしだした。ちょっとかなり?派手目のスーツを着て化粧をばっちりして、「早く寝なさい」と言い残して出て行く。シャネルの5番が部屋に香っていた。
私はテレビと電気を煌煌と着けたまま、犬の姉に抱きついて寝た。
真夜中ふと目覚めても母は帰っていなくて、窓の外からは轟音が響いてくる。それは大通りを走り抜ける暴走族だった。闇の中を走る光の流れを窓からよく見ていた。
一度怖い夢を見て真夜中に起きて泣き叫んだけど、誰も助けてはくれなかった。ただ犬の姉だけが傍に来て涙をなめてくれた。


小学校では参観日というものがあった。母と私が一緒にいると必ず誰かが、「(私)ちゃんのお母さん?綺麗だねー!」と言われた。皆が口を揃えて言うので、私はそんな美人な母親を持てて鼻が高かった。母は私の誇りになった。


ある日、工藤静香中森明菜のヒットソングが流れる車の中で母が「そろそろママじゃ恥ずかしいね」と言ったので、私が「お母さんて呼ぶ?」って言ったら「なんかそれだと老けた気がするね」と言うので、「じゃあ(母のあだ名)?」て言ったら「それがいいね」ということになって、私は母をママではなくあだ名で呼ぶことになった。
一瞬、私の母親だと嫌なのかなって思ったけど、それよりも他の親子とは違う友達のような呼び方をすることに特別さを感じていた。なんかカッコいいなと思って私も気に入った。
私が母をお母さんと呼ぶことは一度もなかった。